小田原市議会 2022-02-16 02月16日-01号
歴史的風致維持向上計画では、板橋地区は、北条時代から続く寺社仏閣や小田原用水、江戸時代の旧街道の街なみ、明治時代以降に建設された別邸など、時代の異なる資産が重層的に折り重なっている地域として位置づけております。本物件は、板橋地区の別邸文化を支える、なりわい・職人文化の歴史的価値を伝えていくため、情報発信、交流の拠点として活用していくという考え方に基づき購入するものでございます。
歴史的風致維持向上計画では、板橋地区は、北条時代から続く寺社仏閣や小田原用水、江戸時代の旧街道の街なみ、明治時代以降に建設された別邸など、時代の異なる資産が重層的に折り重なっている地域として位置づけております。本物件は、板橋地区の別邸文化を支える、なりわい・職人文化の歴史的価値を伝えていくため、情報発信、交流の拠点として活用していくという考え方に基づき購入するものでございます。
また、小田原は、古くは北条時代、近代では益田鈍翁、松永耳庵、野崎幻庵といった小田原三茶人が茶道を極めた歴史もあります。歴史的建造物利活用として、茶道・茶の湯の文化と組み合わせる、またかつて、その建造物の中で繰り広げられていたであろう年中行事と組み合わせるというのは相性がいいかと思います。いずれ、インバウンド観光が回復してきたときに間に合うように、今からじっくり検討していただきたいです。
当時の記録によりますと、従来の海岸堤防は、北条時代の大外郭の一環として、早川河口から山王川河口に築かれた堅固な土塁をそのまま使用してきたものであるが、明治維新以降は、十分な補修がなされなかったため今回の大惨事を招いた。海嘯を機に小田原町は海岸堤防の築造に力を注いだ。
建設予定地からは北条時代の遺構も出ており、江戸時代だけでなく北条時代の歴史も刻まれております。北条時代には全国から有為な人たちが集まり、まちをつくり、経済を発展させたと思います。ところが、新居氏や永田音響設計、そして専門委員長を務められた方も、失意のうちに小田原市との関係を絶っていかれてしまうのではないでしょうか。そうなれば非常に残念なことです。
また、御用米曲輪では、北条時代の重要な遺構が発見されたことを受けまして、今年度中にまとまる予定の概要報告書による発掘調査の成果を踏まえながら、江戸時代の米蔵の跡と北条時代の遺構を、どういう形で複合的に保存・整備し見せていくか検討しているところであります。以上のように、御用米曲輪の修景整備事業はおおむね順調に進んでいるものと考えています。 次に、住吉橋の耐用年数についてであります。
御用米曲輪につきましては、北条時代の重要な遺構が発見されており、その調査の成果を踏まえまして、江戸時代の米蔵の跡と北条時代の遺構をどういう形で複合的に保存整備し、見せていくか、現在検討しているところでございます。 次に、隣接高校との植栽管理の話し合いについてでございます。
御用米曲輪につきましては、御指摘のとおり市民や観光客等に小田原城の歴史的な変遷を理解してもらう上でも大変重要な北条時代の遺構が確認されております。そこで、江戸時代の米蔵の跡とあわせて、これらの遺構を生かしていく整備のあり方について、発掘調査の成果を踏まえながら、文化庁や県とも協議し、史跡小田原城跡調査・整備委員会に諮りながら、十分検討してまいりたいと考えております。
御用米曲輪は、江戸時代の遺構の調査中に北条時代の遺構が発見されたことで、見学会には延べ1000人以上もの参加者があるなど、市内外にかかわらず関心を持っていただき、調査終了後の整備への期待が高まっております。現状、発掘調査のスケジュールは見通せませんが、いずれ終了の時期が訪れる前に、異なった二つの重なり合ったこの貴重な史跡を、どのように保存・活用しているか答えを出す必要があります。
今ある天守閣を膨大な資金を投じて木造として再建するよりは、御用米曲輪や北条時代の館跡、そして庭園周辺の確認整備、さらには本丸周囲の鉢巻状石垣と土塀や鉄門周辺の整備、図書館や郷土文化館の移設など、もっと先に手がけるべき事業があるように思います。 そこで、市長にお伺いいたします。天守閣の再建はいつごろと想定しているのか、そしてその総費用はどのくらいと見込んでいるのかお聞かせください。
また、小田原城は、本丸・二の丸については江戸時代の姿、そして八幡山古郭・総構については北条時代の姿を残しており、それぞれこれを基本に整備する計画であると理解しておりますが、こうした整備の方向を市民や観光客に理解してもらうための施策はどう考えているのか。例えば、史跡案内所のような場所の整備についてどう考えているのか伺います。
現在は安全上の観点から閉鎖いたしておりますが、北条時代の雄大な土塁が残っておりまして、また、石垣山一夜城や相模湾などのすばらしい眺望を楽しめる場所でもありますことから、今年度中に安全さくの設置等の暫定的な整備工事を行いまして、市民の皆さんや観光客などに開放していく予定でございます。 以上をもちまして、12番神永議員の御質問に対する答弁とさせていただきます。
北条時代には天守閣は八幡山古郭、今の小田原高校あたりにあったと言われており、そして関八州を治めたのではないのですか。江戸時代、それから現在の天守閣は城内にあります。小田原は昔からこのお城を中心に栄えてきました。そこで私が言いたいのは、市民ホールはコンベンション機能と併設してお城通り地区再開発事業の予定地に建設すべきだということです。
小田原の梅は古来より栽培されており、奈良・平安時代の下曽我遺跡より梅の種が発見され、後北条時代は梅の栽培が奨励されました。そして、小田原の梅、また曽我の梅と長い歴史をたどり、かながわブランド農産物にも指定され、小田原の名産として著名であり、小田原の特産物であり、ブランドです。
もちろん、演劇・コンサートホールをも含めた総合市民ホールとすべきであり、特に本市としては、歴史的にも大きな時代の流れとともに、北条時代から大久保時代を経て、今日の城下町小田原が存在しているのであって、中核をなすものは、長い歴史と文化に培われた遺産を後世に伝える役目を持った施設であるべきものであろうと信じております。
八幡山の国指定史跡について、今後は北条時代の城跡整備を視野に入れていくとすれば、それに伴う整備計画が必要になってくると考えます。今後の八幡山を中心とした城跡整備計画についてどのように考えているのか、はじめに伺います。 次に、イとして、二の丸広場の今後の活用について伺います。
それから市長は大外郭なり北条時代の総構の整備の話も言われていましたけれども、今の小田原城の高さからはそこは眺めることはできません。やはりある程度の高さがあって、そういった史跡が眺められるようにしないと、私は、この価値を高めること、歴史的景観も含めて大事にするけれども、人を集めてなおかつ歴史を振り返るということは、その高さというのは非常に重要だと思うわけです。
八幡山の県立小田原高校の敷地は、北条時代の遺跡が集中する八幡山古城の中心部を占めているため、既に昭和55年の段階で小田原市教育委員会の報告書「史跡小田原城跡保存管理計画策定報告書」において、八幡山古郭群の史跡指定、公開を速やかに進めるべきものとする方向性が示されております。
ところが、小田原城の本来の価値は、八幡山・小峯の未整備状態にある北条時代の遺構にあることが再三指摘されており、今日では行政のみならず、市民の間にもそのような認識が高まってきております。しかし、実はここで改めて指摘を受けるまでもなく、城址公園と八幡山・小峯は、行政においては古くより一体化とみなされていたものでした。
祭りの実施に際し、さまざまな検討はなされると思いますが、この祭り自体をさらに盛り上げ、いらしたお客様に、北条時代の戦国絵巻の中に身を浸すという、お祭りとしての雰囲気を感じていただくためにも、もう一工夫が必要だと思っております。
また、最近、歴史のまち小田原の形成に深い関心を持つ市民団体は、9月6日に市長に提案した要望書、そして9月14日には各議員あてにその要望書の写しが回ったと思いますが、八幡山・小峯の北条時代の城跡整備に当たって、市民、観光客が、これが小田原の歴史景観なのだ、これこそ戦国時代最高の城郭であるということを十分に堪能できる、そういうような景観整備の促進を求めておりますが、市民の視点に立った、当を得た提唱であるように